来島通総―瀬戸内の海を駆けた「伊予村上水軍」の勇将 (jhistory)

瀬戸内の海賊衆「来島村上氏」の誕生と背景

​伊予来島を拠点とする海の男

伊予国・来島を本拠地とした「来島村上氏」は、能島村上氏・因島村上氏と並ぶ瀬戸内海の有力な水軍(村上水軍)の一派。幼い頃から船と共に生き、櫂と帆の扱いに長けた海のプロフェッショナル集団であった。

​「海の傭兵」としての立ち回り

周防の大内氏、安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏、伊予の河野氏らが入り乱れる権力争いの中、表向きは河野氏に従いながらも、実質的な「海の傭兵」として柔軟な立ち回りを続け、瀬戸内の制海権を握っていった。

​厳島の戦いと門司城の攻防戦

厳島の戦い

1555年、瀬戸内の覇権をかけた「厳島の戦い」が勃発。村上水軍の主力として能島村上氏らと共に毛利元就に協力し、大内氏没落の決定打となる海上封鎖と海戦の勝利に貢献した。

​門司城の海上封鎖作戦

1561年、九州の門司城を巡る大友氏との攻防戦において、関門海峡を巡回して大友方の兵糧・武器搬入を徹底的に阻止。霧を利用した奇襲で敵の大型船を拿捕するなど、高度な海戦術を発揮して城の落城を導いた。

​三島連合の結成と織田信長との激突

​「三島連合」の確立

1570年頃、能島、因島、来島の「三島」による村上水軍の結束がかつてないほど強まり、瀬戸内において圧倒的な海上勢力を誇った。

​第一次・第二次木津川口の戦い

石山本願寺を支援する毛利方の水軍として参戦。1576年の第一次木津川口の戦いでは織田水軍を破り兵糧補給を成功させた。しかし1578年の第二次木津川口の戦いでは、織田方の九鬼嘉隆が率いる鉄板張りの巨大な「鉄甲船」と大筒の猛攻の前に多大な損害を受け、激闘の末に討ち死にを遂げた。

​通総の死後、一族は豊臣秀吉に仕えて大名に取り立てられ、関ヶ原の戦い後は豊後国森へ移り、姓を久留島に改めて明治まで森藩主家として存続した。

​来島通総から学ぶ教訓

​海のプロフェッショナルによる「専門性の極致」

陸の権力抗争の激変に翻弄されながらも、優れた操船技術と海戦ノウハウを武器に、瀬戸内の制海権を左右する「不可欠な存在」として戦国期を生き抜いた水軍の生存戦略。

​時代を変える技術革新(鉄甲船)の脅威

長年誇ってきた海の優位性や戦法が、天下人の強力なバックアップによるテクノロジー(鉄甲船・大筒)の前に覆されるという、歴史の転換点における冷徹な現実。