御館の乱の勝利と、信長・家康との対立
上田長尾家の誕生と謙信の養子相続
1555年誕生。長尾政景の次男。母は上杉謙信の姉・仙洞院(綾御前)。父の溺死後に謙信に引き取られて養子となり、謙信の死後はもう一人の養子である上杉景虎との家督争い「御館の乱」を制して上杉家の当主となった。
信長・家康の巨大権力との対峙と悪運の強さ
織田信長や徳川家康といった天下人に対して滅亡を覚悟するほどの窮地に何度も立たされたが、本能寺の変や石田三成の挙兵など、本人の預かり知らない要因(悪運)に幾度も救われて上杉家の存続を果たした。豊臣政権では五大老の一人に数えられた。
会津移封から米沢30万石への減封、そして晩年
会津120万石への国替えと上杉征伐の引き金
秀吉の命により会津120万石へ移封される。のちに徳川家康との対立から「上杉征伐」を誘発し、関ヶ原の戦いの遠因を作った。関ヶ原の本戦が一日で決着したため米沢30万石へ減封されたが、武名を保ったまま領国を守り抜いた。
無口で無表情な人物像と直江兼続との二人三脚
「生涯で笑ったのは一度だけ」と言われるほどの無口・無表情で家臣に恐れられた一方、腹心の直江兼続との強固な信頼関係(執政体制)を築き、大坂冬の陣(今福の戦い)などでも勇戦して1623年に69歳で死去した。
上杉景勝から学ぶ教訓
絶望的な局面に直面しても組織の舵を投げ出さない豪胆さと覚悟
織田軍の猛攻や関ヶ原の東西決戦といった、一族の滅亡を覚悟するほどの絶体絶命の危機において、決して動揺せずに覚悟を決めて戦い抜いた重厚なリーダーシップ。
優れたナンバー2(直江兼続)を信任し続けた権力者の度量
寡黙で自身の意思を雄弁に語らない性格でありながら、腹心の直江兼続に全幅の信頼を置くことで、強力な二人三脚の体制を作り上げ、激動の戦国期を生き残らせた統率の在り方。
