三国同盟の崩壊
| 1560年:桶狭間の戦い | 今川義元が敗死。甲相駿三国同盟の均衡が崩れ始める。 |
| 1568年3月:寿桂尼の死去 | 今川家を支えた寿桂尼(義元の母)が没する。 |
| 1568年11月:武田の駿河侵攻 | 武田信玄が駿河へ侵攻し、三国同盟は完全に崩壊。 徳川軍も同時に遠江へ攻め込む。 |
| 北条の動き | 氏康の娘(早川殿)が今川氏真に嫁いでいたため、北条は今川支援を開始。 |
| 1569年5月:今川家の滅亡 | 氏真が掛川城を退去し、北条を頼ったことで戦国大名・今川家は滅亡する。 |
包囲網と信玄の外交術
越相同盟の成立
北条氏康は宿敵・上杉謙信と同盟を結ぶ。 北条は領土を割譲し、実子(景虎)を養子に出すほどの血を切る決断を下す。
信玄の窮地(四面楚歌)
北に上杉謙信、南東に北条氏康 南西に徳川家康と敵対
信玄の反撃(甲越和与)
信玄は冷静に織田信長・足利義昭を仲介に使い、上杉と交渉。 1569年7月、上杉との和睦(甲越和与)に成功する。 これにより、北条が苦心して結んだ越相同盟の価値は大きく低下した。
関東進撃と小田原城包囲
1569年8月:西上野からの電撃進軍
北条の主力を駿河に引き付けた隙に、信玄は甲府を出陣。 駿河ではなく西上野を経由して関東へ進撃する。
北条支城への侵攻
9月9日に武蔵御嶽城を攻略。9月10日に北条氏邦の鉢形城を牽制しつつ、北条氏照の滝山城へ。滝山城で小山田信茂の活躍もあり、三の曲輪まで占領。
小田原城包囲と撤退
10月1日に北条の本拠地・小田原城を包囲。駿河にいた北条軍の主力を呼び戻すことに成功した。籠城する北条に対し、信玄は4日間の包囲ののち(10月4日)速やかに撤退を開始。
三増峠の激闘と重臣の損失
10月6日:三増峠の戦い
甲斐へ帰還する武田軍に対し、北条軍(氏照・氏邦・綱成ら)が山岳地帯で待ち伏せ。 激しい追撃・挟撃戦となる。武田軍は後方の山県昌景隊らの反撃により、北条軍を退ける。 信玄の本隊は無事に甲斐への帰還を果たした。
重臣・浅利信種の討死
北条綱成隊の銃撃などにより、武田の譜代家老・浅利信種が戦死。 信種は西上野支配の拠点(箕輪城)を担う重要人物であり、武田軍にとって大打撃となった。浅利信種の跡務および箕輪領の支配は、武田四天王の一人・内藤昌秀が引き継いだ。
