長船貞親―乙子城からの苦楽を共にし筆頭家老を務めた宇喜多の重臣 (jhistory)

乙子城からの出仕と直家への忠節

​最下層からの従臣

祖父・宇喜多能家を討たれて落魄した宇喜多直家が、浦上宗景から与えられたわずか300石の乙子城に入城した最初期からの最古参家臣(岡利勝・戸川秀安らとともに「宇喜多三老」と呼ばれる)。

​絶食の苦難と不変の絆

極貧の乙子城時代、兵糧の枯渇に苦しみながらも主君・直家らとともに絶食を耐え抜き、宇喜多家再興の基盤を命がけで支えた。この過酷な原体験があるからこそ、疑心暗鬼になりがちな謀略家・直家からも生涯にわたって絶大な信頼を獲得した。

​数々の武功と織田・豊臣政権への対応

​明禅寺合戦と上月城の戦いでの奮戦

三村氏との「明禅寺合戦」では敵将・荘元祐を討ち取る大功を挙げた。旧主・浦上宗景との戦いや、毛利氏に属して織田軍(羽柴秀吉)と戦った「上月城の戦い」では黒田孝高(官兵衛)軍を破るなど、要所での軍功を重ねた。

​筆頭家老への就任と安土城訪問

直家が秀吉を通じて織田信長に臣従した後は毛利軍と交戦。直家の没後、戸川秀安の隠居に伴い宇喜多家の筆頭家老に就任し、幼少の当主・宇喜多秀家の名代として信長へ礼を述べるため安土城へ赴くなど、外交・国政の中枢を担った。

​悲劇的な暗殺と次世代の不和

​四国征伐と娘婿による暗殺

豊臣秀吉の四国征伐などに宇喜多軍の重鎮として従軍して国政を執り続けたが、1588年、自身に不満を抱いていた娘婿の謀略にかかり、新年の祝宴に招かれた先で暗殺された。

​宇喜多騒動への伏線

武闘派の岡利勝とは反目することもあったが、戸川秀安の仲介で三老の結束を保っていた。しかし貞親の死後、子の長船綱直や戸川達安(秀安の子)ら次世代の重臣たちが主導権をめぐって激しく対立。のちに宇喜多家の壊滅的打撃となる「宇喜多騒動」の遠因となった。

​長船貞親から学ぶ教訓

​組織の黎明期を支えた創業の絆と実績

絶対的な困窮期(乙子城時代)を共に乗り越えた体験が、苛烈なリーダー(直家)との間に揺るぎない信頼関係を生み出し、長期にわたり軍事・行政の最高責任者を任される礎となった。

​内部リスク管理と後継者育成の落とし穴

外敵(他国)との戦いには無類の強さを発揮したものの、身内による怨恨や謀略を防ぎきれず、自身の死が次世代(長船綱直ら)の内部対立を引き起こす引き金となった組織管理の教訓。