馬場信春―「不死身の鬼美濃」と称され長篠で散った武田四天王の宿老 (jhistory)

土豪からの叩き上げと信玄を支えた信頼

​教来石家から馬場家への名跡継承

1513〜1515年頃誕生(初名は教来石景政)。武田信虎・信玄の二代に仕え、信玄の初陣から従軍して武功を重ねた。1546年に信玄の命で、かつて断絶していた譜代の名門・馬場家の名跡を継ぎ、馬場信房(後に信春)と改称した。

​「不死身の鬼美濃」の誕生

生涯70度を超える合戦に出陣しながら、長篠の戦いで討死するまで一度もかすり傷すらなかったと伝わり、「不死身の鬼美濃」の異名をとる現場叩き上げの最高宿老として武田軍団を支えた。

​長篠の戦いでの殿軍と壮絶な最期

​撤退の具申と勝頼の撤収見届け

1575年の長篠の戦いでは、勝率なき戦いを回避すべく内藤昌豊・山県昌景と共に撤退を進言するも勝頼に却下された。開戦後、武田軍の戦線が崩壊する中、勝頼の無事な撤退を見届けるために自ら殿軍(しんがり)を務めた。

​敵陣への突入と『信長公記』の絶賛

勝頼の撤退を見届けると、自ら敵陣へ入って「ワシを討って手柄とせよ!」と突入し、壮絶な討死を遂げた。その鬼神のごとき最後は敵将・織田信長の『信長公記』においても「その働き比類なし」と絶賛された。

​馬場信春から学ぶ教訓

​現場叩き上げから最高実力者へと上り詰めた「継続的実績」

小土豪の出身から始まり、数々の実戦と長年の信頼蓄積によって武田家を代表する最高幹部(四名臣)へ昇格した組織的キャリアの模範。

​敗戦におけるプロフェッショナルの殿(しんがり)責任

敗色が濃厚な組織の崩壊局面において、私欲を捨てて主君を逃がし、自らが盾となって組織の全滅を防いだ究極の危機管理・責任感の美学。