三好長慶への出仕と三好三人衆の結成
三好政権下での台頭
三好長慶に仕え、山城国などの統治や軍功を重ねて重臣となる(名は「石成友通」とも。他の二人と異なり三好一門外の出身ともされる)。
三好三人衆としての台頭と「永禄の変」
1564年に長慶が病死すると、三好長逸・三好政康とともに「三好三人衆」を形成。当主・三好義継の後見役として家政の実権を握り、1565年には足利義輝を襲撃して討ち取り(永禄の変)、足利義栄を14代将軍に擁立して京都の政治を主導した。
松永久秀・織田信長との対立と乱戦
松永久秀との抗争と東大寺大仏殿の焼き討ち
三人衆の主導権を巡り松永久秀と対立。久秀を追い詰めるも、奈良での激戦(東大寺大仏殿の戦い)で東大寺が焼失するなど泥沼の内部抗争へ突入した。
信長上洛への抵抗と和睦
1568年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると抵抗したが、勝竜寺城を追われ退却。その後、本願寺や四国勢(阿波三好家)と連携して信長包囲網の一角として抗戦を続けたが、やがて信長と和睦した。
足利義昭への接近と淀城での討死
将軍・足利義昭への臣従
和睦後は信長および将軍・足利義昭に仕え、山城国の治安維持や政務にあたった。信長からその実直な姿勢を「表裏なき仁」と称されたとされる。
淀城の戦いと壮絶な最期
1573年、信長と足利義昭の対立が激化すると義昭側につき、巨椋池に浮かぶ要衝・淀城(淀古城)に籠城。織田方の細川藤孝や三好生(旧同僚)らの攻撃を受け、内応・裏切りが相次ぐ激戦の中で孤立し、討ち取られた。三人衆の中で最も明確な最期が残されている。
岩成友通から学ぶ教訓
血縁・基盤なき叩き上げによる実務力と生存権
三好一門外の身から能力と実務で「三人衆」の一角へ登り詰め、政権の中枢(山城国統治)を維持した叩き上げ人材の実践的価値。
最高権力(信長・義昭)の板挟みと選択の代償
中央の政局(信長と将軍義昭の対立)において、義理や信条(義昭への忠義)を優先して過酷な側を選択した結果、組織の裏切りにより孤立・討死へ追い込まれた政治的リスク管理の教訓。
