下総からの落亡と武田信虎・信玄への仕官
小弓城の落城と甲斐への亡命
1497年、下総国の名門・千葉氏の重臣である原家に誕生。1517年の小弓城落城により本拠地を追われ、父と共に甲斐へ落ち延びて武田信虎に足軽大将として仕えた。
「鬼美濃」の異名と信玄代の活躍
数々の合戦で先陣を切って武功を挙げ、「鬼美濃」「夜叉美濃」と呼ばれる猛将として名を馳せた。信虎追放後も甲斐に留まり、若き武田晴信(信玄)の信濃侵略を足軽大将として支えた。
日蓮宗への信仰と北条家への一時出奔
宗論を巡る対立と甲斐追放
代々厚く信仰してきた日蓮宗への強いこだわりから、1553年に浄土宗との宗論や改命の拒絶を巡って信玄と対立し、甲斐を追放されて相模の北条氏康のもとへ身を寄せた。
三国同盟を契機とした帰参
1554年、甲斐・相模・駿河の「甲相駿三国同盟」の締結を機に赦免され、武田家へ復帰。再び信玄の麾下として前線の陣営に立った。
負傷による戦線離脱と最期
割ヶ嶽城攻めでの銃創と川中島不参
晩年は剃髪して「清岩」と号した。信越国境の割ヶ嶽城攻めの際、鉄砲の弾を受けて重傷を負い、その療養により名高い第四次川中島の戦い(1561年)には参陣することができなかった。
病死と「美濃守」名の継承
一線を退いた後、1564年1月28日に甲府の屋敷にて病死(享年68)。死後、その「美濃守」の異名と受領名は馬場信房(馬場信春)へと引き継がれ、「二代目鬼美濃」誕生の由来となった。
原虎胤から学ぶ教訓
出自のハンデを乗り越える「現場での圧倒的実務力」
譜代の国衆ではない「他国者・流浪の身」でありながら、最前線の足軽大将として戦果と信頼を積み上げ、武田軍団の不可欠な中核へと登り詰めた実力主義の体現。
組織の論理と信念(信仰)のせめぎ合いにおける「筋の通し方」
主君(信玄)の定めた法度や方針に反してでも、自らのアイデンティティの根幹である宗教的信念を曲げず、時には組織を去る覚悟をもって守り抜いた一途な生き様。
