堀秀政―「名人久太郎」と称され織田・豊臣を支えた文武兼備の才器 (jhistory)

織田政権での台頭と奉行としての奉仕

​美濃での誕生と織田家への仕官

1552年、斎藤道三に仕えた地侍・堀秀重の長男として美濃国に生まれる。織田信長に仕え、幼少よりその才能を見出された。

​奉行としての活躍と軍功

将軍・足利義昭の仮御所となった本圀寺の普請奉行を務めたことを皮切りに、織田家の奉行として多方面で奔走。1575年の越前一向一揆討伐、1577年の紀州雑賀攻めに出陣し、1578年の有岡城攻めでは鉄砲隊を率いて武功を挙げた。

​長浜城主への抜擢

1581年、これまでの功績を認められ、近江国長浜城2万5千石を与えられた。

​本能寺の変から豊臣政権下での飛躍

​山崎の戦いの先鋒と清須会議

1582年、丹羽長秀とともに徳川家康の接待役を務めた直後、本能寺の変が勃発。羽柴秀吉の「中国大返し」に合流し、山崎の戦いでは急遽先鋒を務めて明智光秀討伐に貢献した。清須会議の後、近江佐和山9万石を与えられるとともに、信長の嫡孫・三法師の傅役および蔵入地の代官に任じられた。

​賤ヶ岳・小牧長久手での武勇

1583年の賤ヶ岳の戦いでは見事な陣取りと戦功を挙げ、徳川家康が秀吉に宛てた書状の中でも「久太郎の砦へ柴田軍が攻めかかったが切り崩されたと聞く。比類なき働きである」と絶賛された。

1584年の小牧・長久手の戦いでは「三河中入り」の別動隊として参戦。先頭を行く羽柴秀次隊が白山林で徳川軍の奇襲を受けて壊滅した際、後続の秀政は素早く伏兵を配置し、追撃してきた徳川方の先鋒の榊原康政隊と大須賀康高隊を鉄砲の一斉射撃で返り討ちにして撤退させた。長久手の一連の戦闘において羽柴方が勝利を収めたのは、この秀政の一戦のみとされる。

​越前北ノ庄18万石

1585年の紀州攻め・四国平定の功により、丹羽長秀の遺領であった越前国北ノ庄18万石を拝領。従四位下・侍従兼左衛門督に叙任された。軍事・内政・外交のいずれにおいても隙がなく完璧にこなしたことから、後世「名人久太郎」と称賛された。

​小田原征伐での陣中死と家系の継承

​山中城攻略と小田原での急死

1590年、関白となった秀吉による小田原征伐が始まると、秀政は左備の大将として参陣し、箱根の要害・山中城の攻略で大功を挙げた。しかし同年5月下旬、陣中に発生した疫病に罹患し、39歳の若さで急死した。

​埋葬と子孫の移封

亡骸は小田原の海蔵寺に葬られ、髷(まげ)のみが越前へ持ち帰られて福井の長慶寺に墓が建てられた。家督は長男の堀秀治が継ぎ、1598年に越後春日山30万石へと加増移封された。その後、秀政の遺骨も越後上越の林泉寺へ改葬され、父・秀重、子・秀治とともに眠っている。

​堀秀政から学ぶ教訓

​あらゆる任務を完璧に遂行する「万能な実務能力」

普請奉行・外交接待・鉄砲隊の指揮・城主としての領国経営・軍事戦略のいずれにおいても極めて高い成果を出し続け、名人称された多才さと柔軟な対応力。

​冷徹な戦況判断と即座のリスク管理

小牧・長久手の戦いにおいて、味方の壊滅という大混乱の中でも動揺せず、冷静に状況を分析して伏兵・鉄砲射撃で敵を撃退したように、逆境において即座に最善の危機管理策を打てる冷静沈着な判断力。