丹羽長秀―「米五郎左」と称され織田・豊臣を支えた重臣と丹羽家の激動 (jhistory)

織田政権下の栄光と「米五郎左」

​信長からの絶大な信頼

織田四天王の一人に数えられ、政治・軍事の双方で才能を発揮。「米のように必要不可欠な存在」として「米五郎左」と称された。

​重用と出世

安土城の普請奉行を任され、京都御馬揃えでは一番手として入場する破格の待遇を受けた。織田家臣団のなかで最初に国持大名へ昇進した人物でもある。

​本能寺の変前の状況

四国遠征の副将に任命されていたが、直前に本能寺の変が勃発し遠征は中止。当時保有していた領地は若狭一国と佐和山(20万石未満)であり、一時的に織田家内の出世競争からは遅れをとりつつあった。

​秀吉政権への協力と100万石越えの大名へ

​秀吉陣営の重鎮へ

本能寺の変後は豊臣秀吉(羽柴秀吉)と行動をともにし、1583年の賤ヶ岳の戦いでも秀吉方に参加。柴田勝家の滅亡後、越前や加賀の一部を与えられ北庄城へ入った。

​小牧・長久手の戦いと検地

1584年の小牧・長久手の戦いでは秀吉方として参戦。嫡男の丹羽長重(10代半ば)を尾張の前線へ送り出しつつ、自身は佐々成政との緊張が高まる越前本拠の安定に注力した。同1584年7月には越前で検地を実施した記録が残る。

​巨星の落日

1585年4月、北庄にて死去(享年51)。信長を長年支えた宿老の退場は、織田旧臣の時代から本格的な秀吉一強の時代へと移り変わる象徴的な出来事となった。長秀・長重親子での石高は100万石(123万石)以上に達していた。

​嫡男・長重の苦難と転落

​度重なる減封

長秀の死後、跡を継いだ長重は越前を失い若狭へ移封(123万石から15万石へ大幅減封)。さらに九州平定後、家臣の不祥事を理由に若狭も召し上げられ、加賀松任4万石の小大名へ転落した。

​関ヶ原での改易

その後、加賀小松12万石まで盛り返したものの、1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属したため改易され、丹羽家は一度滅亡した。

​奇跡の復活と幕府下での躍進

​徳川政権での復帰

603年、関ヶ原後の改易に伴う人材不足を背景に、常陸国にて1万石の大名として奇跡的に復帰。

​10万石大名への返り咲き

大坂の陣で武功を挙げ、二代将軍・徳川秀忠の御伽衆に就任。順調に出世を重ね、最終的に陸奥国白河藩10万石の大名へと返り咲いた。関ヶ原で改易されたのちに10万石以上の大名へ復帰できたのは、長重と立花宗茂の2人のみである。

​血脈の稀少性

織田四天王の家系で江戸時代の大名家として残ったのは丹羽家のみ。現代においても織田一門直系の旧華族として、織田4家・森家とともに家系を未来へ伝えている。

​丹羽長秀・長重親子から学ぶ教訓

​激変する政権下での順応と生存戦略

信長・秀吉・家康と天下人が目まぐるしく変わる時代において、政権の中枢を見極めて家を守り抜く柔軟性の重要さを示している。

​どん底から這い上がる不屈の精神

123万石から改易(ゼロ)にまで転落しながらも、武功と実績を積み重ねて10万石にまで復権を果たした長重の執念は、どんな逆境からでも再起できることを物語っている。