川中島の戦いでの殿と上杉四天王としての活躍
生い立ちの謎と上杉謙信への仕官
生年不詳~1604年没。近江守。越後新田氏系ともいわれるが生い立ちは不明な点が多く、上杉謙信に仕えた経緯や前半生の詳細もはっきりしていないが、桝形城主を務めた。
第4回川中島の戦いにおける見事な殿務め
1561年の第4回川中島の戦い(八幡原の戦い)において、上杉軍の撤退時に見事な殿(しんがり)を務め上げ、武田軍の追撃を抑え込んでその武名を後世に大きく知らしめた。この実績などから「上杉四天王」の一人に数えられる。
景勝への忠勤と会津・米沢への移住
上杉景勝への継承と新発田重家攻めでの参陣
謙信の死後は上杉景勝に引き続き仕え、1582年に三条城主となる。1586年の新発田重家の乱の際には鉄砲大将として参陣するなど、歴代の上杉家を軍事面で支えた。
会津・米沢への移封と晩年
1598年の会津移封、1601年の米沢移封にも従い、1602年には天正寺を建立するなど領内の安定に寄与。1604年に亡くなり、墓所は栄松寺に残されている。
甘粕景持から学ぶ教訓
一世一代の危機(撤退戦)で真価を発揮する「卓越した殿軍の胆力」
勝敗の分かれ目となる過酷な撤退戦(殿)において、冷静さと強靭な軍事力をもって軍の崩壊を防ぎ、組織全体の致命傷を回避した優れた実戦指揮能力。
出自の不明さを超えて実績で地位を築き上げた「実力主義のキャリア」
前半生の記録が乏しく謎が多い中、要所での手柄と長年の忠義によって上杉家の最高幹部である「四天王」の座まで駆け上がった一武将の生き様。
