一柳直末―秀吉の黄母衣衆から美濃5万石へ、小田原に散ったたたき上げ (jhistory)

美濃の地侍から秀吉の側近(黄母衣衆)へ

​美濃出身の出自と稲葉一徹との縁

1546年に美濃国で生まれる。美濃の地侍の出身であり、母が西美濃三人衆の一人である稲葉一徹の姪であったと伝わる。

​長浜城主となった秀吉への仕官

1573年の小谷城の戦いで浅井氏が滅亡した後、羽柴秀吉が長浜城を与えられるとそれに仕え、秀吉の精鋭である「黄母衣衆(きほろしゅう)」に選ばれた。

​三木城攻めと直盛の呼び寄せ

1578年の三木城攻めの後、2千5百石を与えられて頭角を現した。立身出世を果たした直末は、弟の一柳直盛を呼び寄せて自身の配下に組み込んだ。

​本能寺の変から秀次付の家老、そして美濃5万石へ

​本能寺の変と山崎の戦い

1582年、備中高松城攻めの最中に本能寺の変の知らせを受け、直ちに畿内へ引き返して山崎の戦いに参戦し、明智光秀軍と交戦した。その年の暮れに山崎槙島城1万石、のち近江勢田城1万5千石を拝領した。

​各地への転戦と秀次付の家老への抜擢

1584年の小牧・長久手の戦いに参戦し、1585年には紀州征伐、四国征伐、越中の佐々成政の押さえとして各地を転戦した。羽柴秀次が近江に入城した際には、田中吉政・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊らとともに秀次付の家老に任命された。

​美濃大垣城から軽海西城へ(5万石の大名へ)

黒田官兵衛の異母妹を妻に迎えて黒田家と縁戚関係を結びつつ、美濃大垣城2万5千石を与えられ、美濃の蔵入地代官も兼ねて従五位下伊豆守に叙任された。1589年には美濃軽海西城へ移り、5万石の知行を得て、中村・堀尾・山内らと並ぶ豊臣政権の中堅大名へと成長した。

​小田原征伐での壮絶な最期と弟・直盛による継承

​1590年:山中城攻めでの討死

1590年の小田原征伐へ出陣。中村一氏とともに先鋒を任され、難攻不落とされた北条氏の支城・山中城の攻略に挑んだ。しかし、堀(障子堀)に足をとられて身動きが取れなくなったところへ、土塁の上から敵の鉄砲の斉射を受け、銃弾に倒れて命を落とした。

​弟・直盛による家名の継承と発展]

兄の死後、弟の直盛が領地を継承した。直盛はのちの関ヶ原の戦いで東軍に属し、伊予西条藩6万8千石の大名へと家を興すことになった。「兄の直末が基盤を築き、弟の直盛が家を興した」と評されている。

​一柳直末から学ぶ教訓

​黄母衣衆から中堅大名へ

地侍の身分からスタートしながら、黄母衣衆としての側近務めや数々の実戦(山崎、長久手、四国、紀州など)で着実に手柄を重ね、5万石の中堅大名へと登り詰めた叩き上げの突破力。

​先陣を切るリスクと一族への継承

天下分け目の小田原征伐で真っ先に先鋒を務め、山中城の戦いで命を散らしたその勇猛さは、豊臣政権の拡大期における最前線の厳しさを物語ると同時に、残された弟(直盛)への確実な血脈・領地の継承へと繋がった。