尼子経久―浪人から山陰山陽11カ国の覇者へ登り詰めた謀聖 (jhistory)

​守護代追放からの月山富田城奪還

​京極氏の血脈と京都での洗練

1458年、出雲守護代・尼子清定の嫡男として生まれる。幼少期は主君である近江の京極政経のもとで人質として過ごし、京文化や高い教養を身につけた。

​追放劇と鉢屋衆を用いた奇襲

出雲帰還後に守護代を継ぐも、寺社領の横領や段銭納付の拒否により守護代職を剥奪され、月山富田城を追われて浪人の身となった。しかし1486年、芸能集団「鉢屋衆」の手引きと奇襲により月山富田城を劇的に奪還。出雲の事実上の支配者へ復帰し、京極氏から完全独立を果たした。

​中国地方への進撃と山陰山陽の覇権

​11カ国の太守へ続く膨張

出雲を平定後、伯耆・備中・備後・美作・石見・安芸などへ精力的に侵攻。周防の大内義興や台頭する毛利元就らと縦横無尽にしのぎを削り、のちに「山陰山陽11カ国の太守」と称される尼子氏の絶頂期の礎を築いた。

​政久の戦死と塩冶興久の反乱

「花も実もある勇将」と期待された嫡男・尼子政久の陣中戦死や、三男・塩冶興久の反乱といった悲運に見舞われながらも、冷徹な統制と謀略で尼子家の危機を何度も乗り越えた。

​無欲正直と謀聖の二面性

​万物や部下に執着しない好々爺

毛利元就・宇喜多直家とともに「中国地方の三大謀将」と称され「謀聖」の異名をとる一方で、「天性無欲正直の人」と評された。他人に物を褒められると着ている小袖や庭の松(枝)まで惜しげもなく与えてしまうなど、物への執着を持たない人物像が伝えられる。

​教養あふれる趣味人

自画像を自ら描き、和歌や古典(伊勢物語)を嗜むなど、京都仕込みの非常に豊かな文化的教養と審美眼を持ち合わせていた。

​家督継承と最期

​孫・晴久への継承

1537年、家督を孫の尼子晴久(詮久)に譲り後見に回った。のちに毛利元就との「吉田郡山城の戦い」で尼子軍が大敗を喫する大乱戦の中、1541年に月山富田城にて84歳の大往生を遂げた。

​尼子経久から学ぶ教訓

​絶望からの圧倒的再起力と勝負勘

一度は城を追われ無一文の浪人に落とし穴へ突き落とされながらも、地元の特殊技能集団(鉢屋衆)と連携した奇術のような戦略で城を奪還し、時代の覇者に成り上がった執念と逆転の発想力。

​器量の大きさと人心掌握術

物や既得権益に一切執着せず他者に還元する大らかさ(無欲)と、冷徹無比な謀略(謀聖)という一見相反する要素を併せ持ち、配下や国人衆を惹きつけて巨大組織を統制した人間的魅力。