悲劇からの家督再興と下克上
一族殺害の悲劇と水ヶ江龍造寺家の継承
1529年、龍造寺家の分家・水ヶ江龍造寺家に生まれる(当初は胤信)。1544年、少弐氏の重臣・馬場頼周の謀略により父や祖父を一度に失う壮絶な悲劇に見舞われた。
曽祖父・家兼の執念と独立
90歳を超える曽祖父・龍造寺家兼の再起挙兵により宿敵・馬場頼周を討伐。家兼の死後に後継として水ヶ江家を継ぎ、のちに本家の当主・胤栄の未亡人を娶って本家も掌握。周防の大内義興・義隆(偏諱を受け「隆信」と改名)や蒲池氏の後援を受け、旧主・少弐氏を滅ぼして完全な下克上を果たした。
今山の戦いの逆転劇と九州三強
大友宗麟の侵攻と今山の戦い
急速な拡大を恐れた大友宗麟から大規模な討伐軍を送り込まれ、佐賀城を包囲されて絶体絶命の危機に陥る。1570年、義弟・鍋島直茂の提案による果敢な夜襲(今山の戦い)が決行され、大友軍の陣を急襲して総大将・大友親貞を討ち取る劇的な逆転勝利をおさめた。
「肥前の熊」と五州太守の降臨
耳川の戦いで大友氏が島津氏に敗れ衰退すると、その隙を逃さず肥前・筑前・筑後・肥後・豊前などに勢力を急速にハイエナ・拡大。島津氏・大友氏と並び「九州三強」の一角として「肥前の熊」「五州太守」と恐れられた。
「沖田畷の戦い」での壮絶な戦死
有馬氏の離反と島原出兵
1582年、有馬晴信が離反して島津氏と結ぶと、2万5千の圧倒的大軍を率いて自ら島原半島へ出陣。有馬・島津連合軍(約8千)との決戦に臨んだ。
「釣り野伏せ」に沈んだ最期
1584年、「沖田畷の戦い」において狭隘な泥田の地形と島津家久の得意とする誘い込み策(釣り野伏せ)にハマり、大軍の機動力を封じられた。混乱の中で島津家臣・川上忠堅に討たれ戦死(享年56)。龍造寺四天王(成松信勝・江里口信常・百武賢兼・円城寺信胤ら)も次々と討死し、軍勢は壊滅した。
鍋島直茂への実権移行
鍋島直茂による補佐と肥前掌握
隆信の戦死後、息子の龍造寺政家が後を継いだものの、実質的な実権は優れた軍事・外交・内政の手腕を持つ義弟の鍋島直茂(鍋島家)へと移行。のちに鍋島氏が正式に佐賀藩主となり、近世大名として肥前を治めた。
龍造寺隆信から学ぶ教訓
絶望的惨劇からの挽回
一族の大半を惨殺される絶望的状況からスタートしながら、時流(大内・大友の利害)を機敏に捉え、奇襲(今山の戦い)を成功させて九州随一の勢力へ駆け上がった不屈の闘志。
優勢時の過信と地形・伏兵の軽視が招く壊滅
兵力で圧倒しながらも、過信から狭隘な地形へ深く突入し、島津軍の「釣り野伏せ」にハマって総大将が討たれた敗戦は、勝勢の時こそ冷徹な客観性と警戒心が不可欠であるという教訓。
