黒田職隆の小姓から官兵衛の腹心へ
播磨での誕生と黒田家への士官
1554年、播磨国飾東郡松原郷(現・姫路市白浜町)にて井上之正の子として生まれた。官兵衛の父・黒田職隆の小姓として仕え、職隆の隠居後も側近として仕えた。
有岡城幽閉の危機と盟約
1578年、荒木村重の叛逆により黒田官兵衛が有岡城に監禁された際、母里太兵衛や栗山善助(利安)らとともに黒田家を守り抜くことを誓う「留守職中連署起請文」に名を連ね、主家の危機を支えた。
官兵衛の直臣へ
1585年に職隆が没すると、その遺命により官兵衛の直臣となった。
九州平定と文禄・慶長の役での活躍
九州平定と6千石の拝領
1587年の九州平定後、黒田家が豊前国に入国した際に6千石を与えられた。
国人一揆での直言
豊前国人一揆の際、城井鎮房攻めで黒田長政が敗北を喫した際、長政の軽挙妄動を強く諫めたと伝わる。
朝鮮出兵への参陣
1592年からの文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも黒田軍の重臣として参陣し、軍功を重ねて黒田家内での地位を不動のものとした。
吉弘統幸との情義と石垣原の戦い
大友家臣・吉弘統幸との預かり縁
朝鮮出兵時の混乱で改易された大友家の名将・吉弘統幸が黒田家に身を寄せた際、之房は自身の屋敷で統幸を預かり、深い交友を深めた。
関ヶ原の異変と石垣原での激突
1600年の関ヶ原の戦いに伴い、九州では黒田官兵衛が挙兵。西軍に投じた旧主・大友義統に従う吉弘統幸と、東軍の黒田軍に属する之房は「石垣原の戦い」で敵味方として対峙した。
統幸の最期と加増
追い詰められた統幸は「かつて恩のあった九郎右衛門(之房)に手柄を譲る」として自刃し、之房はその首級を得た。この戦功などにより、戦後に1万6千石へと加増された。
晩年と「黒田騒動」の荒波
大坂の陣から隠居へ
1615年の大坂冬の陣には黒田忠之(長政の子)に従い参陣。1625年頃に隠居して家督を孫に譲り、出家して「半斎道柏」と号した。
黒田騒動と最期
最晩年の1633年、黒田家を揺るがした御家騒動「黒田騒動」の収拾にも長老として関わったのち、翌1634年に81歳で死去した。
井上之房から学ぶ教訓
主家に寄り添い続ける「揺るぎない忠誠心」
官兵衛の幽閉や職隆の死去といった主家の重大な危機においても一貫して黒田家を支え続け、最古参の重臣として信頼を勝ち得た一途な誠実さ。
敵味方に分かれても損なわれない「人情と礼節」
石垣原の戦いにおいて、かつて匿った吉弘統幸との深い情義を保ちつつ、武士としての本分を全うした姿勢は、殺伐とした乱世における人間性の尊さを教えている。

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