宇喜多直家への出仕と美作での武功
初陣からの猛将としての台頭
1549年、足利氏の末裔を称する花房職勝の子として生まれる(花房正幸は従叔父にあたる)。宇喜多直家に仕えて足軽大将として初陣を飾り、続く備中攻めで早くも一番槍の功を立てた。
美作統治と国政の担当
毛利氏、赤松氏、浦上氏との激戦で戦功を重ね、美作国の城を任されて国政や在地領主の調略を担当した。単なる猪武者にとどまらない行政・治略の実務力も兼ね備えていた。
秀吉への毒舌と宇喜多騒動での追放
天下人・秀吉への悪態
小田原の陣中、能を楽しんでいた秀吉に対し「腰抜けの大将に下馬する必要はない」と言い放つなど暴言・毒舌を連発。秀吉も一度は怒り切腹を命じかけたが、職秀の圧倒的な武功と豪胆さを逆に気に入り、加増を与えるという異例の展開となった。
宇喜多騒動と佐竹家への預け
主君・宇喜多秀家に対し、側近の長船綱直を重用しないよう猛烈に諫言したことで秀家の怒りを買い、手打ちにされかける。豊臣秀吉と徳川家康の取りなしにより一命を取り留め、常陸国の佐竹義宣のもとへ身を預けられた。
関ヶ原の選択と大坂の陣での奮戦
家康からの誓紙要求拒絶と大名逃し
関ヶ原の戦いを前に徳川家康から佐竹氏の動向を問われ「来ないでしょう」と答えた際、誓紙にしたためるよう求められるも「男が言ったことに文章は不要」と拒絶。家康からあきれられ、戦後8,000石の旗本(大名・1万石に届かず)にとどまり、「あの時書状を書いていれば大名になれた」と要領の悪さを悔やんだ。
大坂夏の陣での老骨を押した陣頭指揮
1615年の大坂夏の陣では老齢と病身を押して板輿に乗りながら参陣。後藤又兵衛の伏兵を見抜くなど見事な戦功を立て、武辺者としての矜持を示した。
八丈島の宇喜多秀家への送金と最期
流罪となった旧主への義理
かつて自分を殺そうとした旧主・宇喜多秀家が関ヶ原で敗れ八丈島へ流罪となると、職秀は自領から毎年米を送って援助を続けた。私怨を差し挟まず昔の恩義と弱者への情けを貫いた好漢として称賛された。1616年、68歳で死去した。
花房職秀から学ぶ教訓
利害計算を超えた不器用なまでの信念と義理
保身や世渡りのための文章作成を拒んで大名への道を逃しながらも、自分を殺しかけた旧主・秀家に毎年救援米を送り続けるなど、損得勘定抜きで義理と信念を貫いた武士の生き様。
個性を殺さず結果で示す圧倒的現場力の価値
目上の人間(秀吉や家康)に対しても物おじせず毒舌や我を通し続けながら、合戦や領知経営の現場で確実に結果を残すことで重用され続けた本物の実力の強み。
