明石全登―宇喜多の家宰を務め大坂五人衆として散った謎多き武将 (jhistory)

​宇喜多氏家宰としての孤軍奮闘

​明石景親(行雄)の子としての誕生

備前国の豪族・明石景親の子として生まれる。父とともに浦上宗景に仕えたが、宇喜多直家の謀叛に応じて宇喜多方に転じた。

​宇喜多騒動での踏みとどまりと関ヶ原での奮戦

熱心なキリシタン(洗礼名:ジョバンニ・ジュスト)であり、1599年の「宇喜多騒動」で譜代重臣たちが相次いで出奔する中、全登は残留して家宰(執政)として主君・秀家を支援。関ヶ原の戦いでは西軍の主力・宇喜多隊を率いて奮戦し、敗戦の際は東軍の追撃を防ぐ殿(しんがり)を務めて秀家を脱出させた。

​潜伏生活と大坂の陣での参陣

​浪人衆を率いる「大坂五人衆」の一人へ

関ヶ原の敗戦後、主君・秀家が八丈島へ流罪となると、全登は黒田如水(官兵衛)を頼るなどして潜伏。1614年の大坂の陣に際し、豊臣秀頼の呼びかけに応じて大坂城に入城し、真田幸村や毛利勝永らと並ぶ「大坂五人衆」としてキリシタン部隊を含む浪人衆を統率した。

​夏の陣における死闘と行方不明

1615年の大坂夏の陣・道明寺の戦いでは水野勝成や伊達政宗の軍勢と激突。最終決戦である天王寺・岡山の戦いでは家康本陣を狙う別動隊として展開するも、正面部隊の壊滅を受けて松平忠直・水野勝成隊へ決死の突撃を敢行した。

​生存説と最期の謎

​明石狩りと全国に伝わる生存伝説

天王寺の戦い以降の足取りは途絶えており、討ち取られたとも戦場を脱出したとも言われ、その最期は謎に包まれている。幕府は戦後徹底的な明石狩りを行ったが捕縛できず、秋田県比内(大館市)や備中、あるいは海外へ逃亡したとする数々の生存説・落人伝説を残した。

​諱(本名)「之孝」の発見

長らく「全登(ぜんとう/てるずみ/たけのり)」という名や洗礼名のみで知られ、諱が不明であったが、近年の史料研究(「豊臣之孝 叙従五位下任掃部頭」の記述)により、正式な諱が「之孝(ゆきたか/これたか)」であることが判明した。

​明石全登から学ぶ教訓

​主家崩壊の危機に問われる家宰の責任と忠義

宇喜多騒動で主要幹部が離脱する崩壊寸前の組織に踏みとどまり、関ヶ原・大坂の陣まで一貫して主家と豊臣家への信義を全うした不屈の忠誠心。

​信仰と武士の誇りを融合させた覚悟の牽引力

キリシタンとしての信仰を守りながら、窮地に陥った豊臣家のもとに一族を挙げて駆けつけ、最後まで一矢報いる姿勢を示して浪人衆を統率した圧倒的な存在感。