長宗我部盛親―改易から再起をかけ大坂の陣に挑んだ長宗我部最後の当主 (jhistory)

異例の家督継承と関ヶ原での敗走・改易

​末子からの家督相続

長宗我部元親の四男として生まれる。1587年の「戸次川の戦い」で長兄・信親が戦死すると、信親の娘を娶る形で兄たち(香川親和・津野親忠)を差し置いて後継者に指名された。元親とともに「長宗我部元親百箇条」を制定し、元親死後に当主となった。

​関ヶ原の不発と土佐改易

1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、吉川広家の不戦姿勢に阻まれて戦わずに敗走。土佐帰国後、家康への謝罪を模索する中で側近・久武親直の讒言を容れて実兄・津野親忠を殺害。東軍と繋がる兄を討ったことで家康の不信を買い、領地没収・改易となり長宗我部家は滅亡した。

​京都での潜伏と「大坂の陣」参陣

​寺子屋の師匠としての14年

改易後は京都で寺子屋の師匠(「優しい大男の先生」として慕われた)となり、旧臣・桑名吉成らの経済支援を受けながら再起の機を待った。

​大坂の陣での参陣と「八尾の戦い」

1614年、大坂の陣が勃発すると旧臣・一領具足ら1,000人を引き連れて入城。「大坂五人衆」として重用された。1615年の夏の陣「八尾の戦い」では藤堂高虎軍を壊滅寸前まで追い詰める激戦を演じたが、隣接する木村重成隊の壊滅を受け撤退を余儀なくされた。

​再起への執念と六条河原での最期

​捕縛と大将としての矜持

敗戦後、お家再興の機会を狙って逃亡・潜伏したが京都で捕縛された。「なぜ自害しなかったのか」と問われると「逃れて再び挙兵し、徳川と一戦交えるためだ。これが大将の心得である」と再起への執念を言い放った。

​六条河原での斬首と家系の途絶

出家による助命は叶わず、二条城門前での晒しを経て1615年に六条河原で斬首(享年41)。大名としての品格と矜持を崩さず刑に臨んだ。盛親の死とともに、その子らも処刑され長宗我部氏の直系は途絶えた。

​長宗我部盛親から学ぶ教訓

​失敗を重ねた情報管理と危機対応の愚

関ヶ原での優柔不断な態度や、側近の言を鵜呑みにした実兄(津野親忠)の誤殺など、政局の不透明な局面での拙劣な決断が家滅亡を招いた教訓。

​泥をすすってでも諦めない「諦めない復元力」

一国の大名から寺子屋の師匠へ落差を受け入れつつ、最期の瞬間まで執念深く再起の機会を狙い続けた不屈の執念。