長尾為景との対立から上杉謙信への帰順
越後守護代への敵対と和解
枇杷島城主。当初は父・房忠と共に、下克上を狙う長尾為景と敵対して上条上杉定憲側に味方したが、のちに為景と和解し越後長尾氏に関わるようになった。
上杉謙信(長尾景虎)への臣従と調停
長尾家の家督争いにおいて一時晴景方についたが、上杉定実の調停を経て景虎(上杉謙信)に付き従う。1550年には謙信と上田長尾政景の同盟を成立させるなど、越後国内の安定に一役買った。
野尻池での水難(謀殺)説と「軍師伝説」の誕生
長尾政景との舟遊びにおける謎の死
1564年、野尻池で長尾政景と舟遊び中に船が転覆し、両名とも水死した。謙信の後顧の憂いを絶つために定満が政景を謀殺したという説もあるが真相は不明であり、この事件を機に宇佐美家は没落した。
「軍師・宇佐美定行」の創出
孫と称する宇佐美定祐が紀州藩に仕えて越後流軍学を広めた際、モデルとして架空の猛将・軍師「宇佐美駿河守定行」を作り上げた。これが後世の講談や小説、ドラマに取り入れられ、史実の定満も「謙信の軍師」として広く認知されるようになった。
宇佐美定満から学ぶ教訓
史実の実像と後世の創作が乖離する歴史の面白さ
実際の史実では限定的な事績や謎の死を遂げたローカルな国人に過ぎない人物が、江戸期の軍学やエンタメ(軍師伝説)の力によって「名軍師」として不滅のキャラクターに昇華された現象。
大乱の時代の転換期を生き抜く「政治的立ち回りと謀略の影」
敵対から和解、そして同盟の仲介から突如訪れる水難(謀殺説)に至るまで、越後の権力闘争の渦中で常に重要な局面に立ち会った当事者としての宿命。
