秀吉の血縁者としての子飼いと賤ヶ岳での大功
貴重な血縁者・ねねの庇護
血縁の少ない豊臣秀吉にとって貴重な身内であり、正室・ねね(北政所)の実家グループの手厚い庇護のもとで育った生え抜きの武将。
初陣と1583年「賤ヶ岳の戦い」
小姓として秀吉に従い、1578年の三木合戦で初陣。賤ヶ岳の戦いでは一番槍・一番首を挙げる絶大な武功を立て、「賤ヶ岳七本槍」の中でも頭抜けた戦績を残した(他の6人が3千石のところ、正則は5千石を拝領)。
九州平定と伊予今治への封入
その後も各地の統一事業で転戦し、1587年の九州平定後には伊予国今治11万3千余石を与えられた。
文禄の役と秀次失脚の役目
1592年・文禄の役
五番隊隊長として四国出身の大名らを率いて朝鮮半島へ渡り戦闘に加わった。
豊臣秀次の切腹伝達と清州城24万石
1595年、関白・豊臣秀次が失脚した際、正則は秀次に切腹の命を直接伝える役目を務めた。その功績や処置の対応もあり、同年には尾張国清洲24万石の大名へと大きく加増された。
関ヶ原の戦いと広島49万石への栄達
石田三成襲撃事件と小山評定の決断
1598年の秀吉没後、武断派と文治派の対立が激化。1599年の前田利家急死後には石田三成襲撃事件を起こした。1600年の会津征伐(6千の兵を率いる)の途中、三成挙兵の報を受けた「小山評定」において、動揺する諸将を前に率先して徳川家康への支持を誓約した。
岐阜城攻めと本戦の激闘
西軍・織田秀信が守る岐阜城攻めで池田輝政と先鋒を争い、黒田長政とともに陥落させる。本戦では宇喜多秀家軍(1万7千)と激突。宇喜多勢の猛将・明石全登に一時陣を押し返されるほどの苦戦を強いられたが、宇喜多勢の突撃を防ぎきった。
安芸・備後49万8千石の広島城主へ
関ヶ原における最大の功労者の一人と評価され、戦後に安芸・備後49万8千石余の大封を与えられて広島城主となった。
豊臣家への忠義と失脚(晩年の悲劇)
二条城会見の実現と尾張衆の相次ぐ死
1611年、家康が豊臣秀頼に上洛と二条城での会見を迫った際、強硬に反対する淀殿を加藤清正・浅野幸長らとともに説得して秀頼の上洛を実現させた。しかし、その会見直後から加藤清正、浅野幸長、池田輝政ら豊臣恩顧の尾張衆が相次いで病死した。
大坂の陣での留守居と広島城無断修復による改易
大坂の陣では豊臣方への心情を警戒されて従軍を許されず、江戸での留守居を命じられた。1619年、台風による水害で破壊された広島城の石垣や堀を幕府の許可なく無断で修復したことが「武家諸法度違反」に問われ、安芸・備後の所領をすべて没収された(後釜には浅野長晟が入封)。
信濃高井野への蟄居と最期
信濃川中島・越後魚沼の4万5千石へと減封され、高井野(長野県高山村)に蟄居。1624年7月、同地で失意のうちに没した(享年64)。
福島正則から学ぶ教訓
先陣を切る圧倒的な突破力と政局の読み
賤ヶ岳や関ヶ原(小山評定・岐阜城攻め)で見せた「誰よりも早く決断し、先頭に立って動く」行動力は、圧倒的な戦果と大国(広島49万石)の地位をもたらした。
時代の大きな転換における処世の限界
天下が豊臣から徳川へ移りゆく中、恩顧や義理(豊臣家への忠義)と、現実的な政治の力学(徳川の支配体制)の狭間で身動きが取れなくなり、些細な法令違反(城の無断修復)を口実に改易に追い込まれた晩年は、強者ゆえの政治的配慮の難しさを物語っている。
