堀尾吉晴―「仏の茂助」と呼ばれ松江城の礎を築いた名将 (jhistory)

尾張での流浪から織田・豊臣家の重臣へ

​岩倉織田氏の没落と仕官

1543年に尾張国で生まれる。当時は岩倉織田氏に仕える国人だったが、織田信長との戦いに敗れて流浪の身となった。その後、信長に仕官し、さらに羽柴秀吉の与力となった。

​備中高松城の検死役

1582年の備中高松城の戦いでは、羽柴秀長や黒田孝高らとともに城を包囲した。城主・清水宗治の切腹を見届ける検死役を任された。

​二つの顔:「仏の茂助」と「鬼の茂助」

通称は茂助。端正な容姿と温厚な性格から「仏の茂助」と呼ばれた一方、戦場での凄まじい勇猛ぶりから「鬼の茂助」とも称された。

​佐和山城から浜松城12万石、そして「三中老」へ

​佐和山城の拝領(1583年)

1583年に佐和山城4万石が与えられた。ここは近江の要衝を守る極めて重視された城であった。佐和山城は、信長が丹羽長秀や自らの近江制圧の拠点として利用し、のちに秀吉が石田三成に任せたことでも知られる(関ヶ原の戦い後は井伊直政が一時入城し、のちに彦根城築城に伴い破却された)。

​豊臣秀次の宿老と浜松城12万石への昇進

1585年、田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末とともに豊臣秀次付きの家老に任命された。1590年の小田原征伐後には浜松城12万石へと出世。浜松城主を10年間務め、石垣や天守閣を築いたほか、二俣城も近代城郭へと変貌させた。

​豊臣三中老としての参与

秀吉の晩年には、豊臣政権の「三中老」に就任。秀吉の死後は、徳川家康と石田三成の間に立って両者の仲介に尽力した。その後、越中府中で5万石を得て、家督を嫡男の堀尾忠氏に譲り隠居した。

​関ヶ原の戦いと出雲松江城の築城

​出雲24万石への加増と月山富田城

1600年の関ヶ原の戦いでは、吉晴自身は参戦せず、嫡男の忠氏が東軍に属した。戦後、その功績により出雲24万石に加増され国持大名へと出世した。尼子氏や毛利氏が拠点とした難攻不落の月山富田城に入城したが、鉄砲の時代になると周辺の山上からの射撃に弱いという弱点があった。

​実戦的名城・松江城の築城と最期

1607年から松江城の築城を開始し、極めて実践的な構造の名城を完成させた。忠氏が早世したため、吉晴が藩政を執り行った(藩主ではないが二元政治や、嫡孫・忠晴の代の政務代行を行い、実質的な初代藩主とみなされることも多い)。三英傑のもとで出世を重ねた吉晴は、松江城が完成に近づく1611年に69歳で死去した。

​堀尾家から伝わる文化と伝説

​堀尾家の断絶と現在に息づく足跡

孫の忠晴が藩政を行ったが、1633年に嗣子なく死去し、堀尾家の家名はわずか三代で断絶・改易となった。しかし、400年以上経った現在でも松江の人々から「吉晴公」と呼ばれ、深く尊敬を集めている。2015年には、吉晴が築いた松江城が国宝に指定され、現存12天守の一つとして親しまれている。

​恵方巻き発祥の伝説

節分の前日に海苔巻きを食べて出陣して大勝を収めたという故事から、恵方巻きが縁起が良いとして広まったとされる(海苔巻き自体は江戸時代の誕生であり後世の創作とも言われるが、発祥の伝説として地域に根付いていることに大きな意味がある)。

​堀尾吉晴から学ぶ教訓

​「仏」の温厚さと「鬼」の猛々しさを兼ね備えたバランス感覚

人望や実務能力(調停・内政・築城)で周囲をまとめる「仏の顔」を持ちながら、戦場では誰よりも先頭に立つ「鬼の顔」を発揮できる二面性こそが、乱世を生き抜き大名家を創り上げる原動力となった。

​次世代を見据えたインフラ構築(松江城)

単なる軍事拠点に留まらず、時代の戦術の変化(弓矢から鉄砲へ)を見据えて実戦的な松江城を築き、城下町の基盤を整えたことが、数百年を経た現在もその地域(松江)のアイデンティティとして生き続ける永続的な価値を生み出した。