黒田家での台頭と数々の武功
黒田家への仕官と朝鮮出兵の活躍
1560年頃、播磨国の地侍・後藤家に生まれる。主家の没落を経て黒田官兵衛・長政父子に仕え(仙石秀久に仕えたのち黒田家に仕えた説もあり)、黒田家の重臣として頭角を現した。文禄・慶長の役では先鋒を務め、第二次晋州城攻略戦などで一番乗りを争うなど目覚ましい活躍を見せた。
関ヶ原の戦いと大名への昇進
1600年の関ヶ原の戦いでは黒田勢の先鋒を務め、石田三成軍の勇将を一騎打ちで討ち取るなど功績を挙げた。黒田家の筑前52万石加増に伴い、益富城主として1万6千石の所領を与えられた。
黒田長政との対立と奉行構による流転
黒田家からの出奔
関ヶ原の戦いから6年後の1606年、主君・黒田長政との不仲や細川忠興との親交を巡るトラブルなどから黒田家を出奔した。
奉行構による再仕官の妨害
天下の名将として細川家や池田家(池田輝政・忠継)から破格の条件で勧誘を受けたが、長政が「奉行構(他家への仕官を一切禁じる処分)」を出して再就職を激しく妨害。諸大名や幕府の仲裁も実らず、京都や大和での隠遁生活を余儀なくされた。
豊臣家への参戦と牢人衆筆頭
大坂城入城と軍事指導
1614年、徳川幕府と豊臣家の対立(大坂の陣)が勃発すると、豊臣秀頼や大野治長からの招きに応じ、旧臣らを率いて大坂城に入城。牢人衆の筆頭として将兵から絶大な信望を集めた。
冬の陣における「今福の戦い」の奮戦
冬の陣では参謀・救援部隊として活躍。今福の戦いにおいて、佐竹軍に押されていた木村重成を救うため迅速に出陣し、木村勢と協力して佐竹軍を猛攻、家老の渋江政光を討ち取る大勝を収めた。
夏の陣・道明寺の戦いでの壮絶な討死
小松山での孤立無援の死闘
1615年の夏の陣・道明寺の戦いにおいて、大和方面から押し寄せる幕府軍を迎撃するため、3千の先鋒を率いて道明寺・小松山に進出。しかし後続の友軍・真田幸村らの到着が遅れ、水野勝成・伊達政宗・松平忠輝ら2万を超える大軍に包囲された。
壮烈な最期と後世の絶賛
数倍の敵を相手に7時間にわたり猛攻を繰り返して多大な打撃を与えたが、圧倒的兵力差の前に討死を遂げた。その勇猛な戦いぶりと死に様は敵味方を問わず称賛され、徳川家康や細川忠興らからも最大級の賛辞が贈られた。
後藤又兵衛から学ぶ教訓
組織の人間関係が生む才能の流出と損失
圧倒的な武勇と将器を持ちながらも、主君との確執や奉行構によって表舞台を追われた経緯は、トップとキーマンの人間関係の破綻が組織・個人双方にとって最大の損失になり得ることを示している。
窮地において揺るがないリーダーシップと責任感
大坂の陣の絶望的な情勢下でも寄せ集めの牢人衆を見事に束ね上げ、道明寺の激戦で圧倒的大軍に最後まで挑み続けた姿勢は、逆境でも他者の信望を集める圧倒的な本物の武勇と責任感の象徴である。
