黒田直之―熱烈な信仰を貫き秋月を治めた黒田八虎の猛将 (jhistory)

播磨での誕生と豊臣政権下での歩み

​黒田職隆の四男として誕生

1564年、播磨国姫路にて黒田職隆の四男として生まれる。母は母里氏であり、天才軍師として知られる黒田官兵衛(孝高)は異母兄にあたる。

​羽柴秀吉から秀長への仕官

1577年の織田家による中国攻めが開始されると、14歳で羽柴秀吉に仕え、のちに兄の利則と同様に羽柴秀長の配下となった。秀長のもとで山陰方面などの各地の合戦に参陣した。

​黒田家への復帰と朝鮮出兵

1586年、九州征伐に赴く官兵衛を支えるため黒田家に帰参。官兵衛が豊前国を与えられると、直之は4,558石を知行として拝領した。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では侍大将として渡海し、朝鮮軍と戦って武功を挙げた。

​関ヶ原の戦いと秋月城代への抜擢

​関ヶ原の戦いにおける動静

1600年の関ヶ原の戦いでは、官兵衛に従って九州戦線に参戦。富来城攻めでは反撃を受けて一時退却したものの、続く筑後久留米城攻めでは城の受け取り役を立派に務め上げた。

​筑前秋月1万2千石の領主へ

戦後、甥の黒田長政が筑前福岡藩主となると、直之はその一門・重臣として1万2,000石を与えられ、要衝である秋月城代を任された。

​熱烈なキリシタン信仰と最期

​洗礼名「ミゲル」と信仰の軌跡

兄・官兵衛と同様に熱烈なキリシタンであり、洗礼名は「ミゲル」。妻は由良成繁の娘(マリア)、嫡男の直基はパウロという洗礼名を持つなど、一家揃って深い信仰心を持っていた。

​明石全登の保護と教会再建

関ヶ原の戦い後に牢人となったキリシタン武将・明石全登(てるずみ)を匿ったり、福島正則に働きかけて広島城下の教会堂再建の許可を得た上、自費でこれを再建するなど、信仰を実践する慈悲深さを見せた。

​最期と聖体拝領

1609年2月3日、養生先の大坂にて死去(享年46)。亡くなる前日には聖体拝領を受けるなど、最期まで信仰を貫き通した生涯だった。死後は福岡の明光寺に葬られた。

​黒田八虎としての評価と一族の絆

​黒田八虎の猛将

黒田家を支えた一門・譜代の精鋭「黒田八虎」の一人に数えられ、兄の利高・利則らとともに黒田家の版図拡大と藩政の礎を大いに支えた。

​黒田直之から学ぶ教訓

​激動の時代を駆け抜けた一門としての献身

秀吉・秀長の配下から黒田家本家に合流し、朝鮮出兵や九州での実戦で武功を重ねて藩の基盤を固めた、一門の武将としての堅実な忠義と役割遂行力。

​信念と慈愛を貫くブレない生き様

武士としての軍功や城代としての統治手腕を発揮しながらも、キリシタンとしての信仰を生涯貫き、迫害された同胞(明石全登など)の保護や教会の再建に尽力した高い精神性。