飯富虎昌―赤備えの祖と称され義信事件に散った武田家の宿老 (jhistory)

​飯富家督の継承と武田信虎への反乱・降伏

​若き日の家督継承と信虎への反逆

1504年頃誕生。父・飯富道悦らの戦死により若くして飯富家の家督を継承した。当初は甲斐統一を進める武田信虎に反旗を翻して敗北するも、信虎にその才を見いだされて重臣として召し抱えられた。

​信玄擁立と譜代宿老への昇格

1541年、信虎の駿河追放クーデター(信玄の家督相続)に参画。若き武田晴信(信玄)の側近・譜代宿老として、信濃侵攻など武田家の初期・全盛期の軍事活動を支えた。

​「赤備え」の伝統と上田原・川中島の戦い

​精鋭部隊の組織化と赤備えの萌芽

厳格な訓練と高度な部隊統制によって精強な軍団を作り上げ、のちに武田軍の代名詞となる「赤備え」の基盤を築いた(当時の同時代史料における「赤一色」の軍装表現には諸説あり)。

​主要合戦での奮戦

上田原の戦いや川中島の戦いなど、数々の激戦に従軍。板垣信方や甘利虎泰の死後は武田家臣団の最古参格として、最前線の城代(内山城・室賀城など)や軍団の一翼を担った。

​武田義信の傅役と義信事件による最期

​嫡男・義信の傅役と政治的対立

武田家の嫡男・武田義信の傅役を務める中で、信玄の外交方針(今川家との断交・駿河侵攻路線)に反対する義信派の中心人物として家臣団内部の対立の渦中に置かれた。

​「義信事件」での謀議露見と粛清

1565年、義信を擁して信玄に反逆する陰謀が露見(義信事件)。首謀者として捕らえられ、同年10月15日に甲斐国内の寺院にて切腹に処された(享年62)。死後、その精鋭部隊や名跡は山県昌景らへ引き継がれていった。

​飯富虎昌から学ぶ教訓

​敗者を登用する度量と「実力主義の組織運営」

かつて敵として刃を向けた者を、その才覚と眼力を見抜いて一門の重臣に引き立てた武田家の柔軟かつ実力主義的な人材登用システム。

​後継者抗争に巻き込まれる宿老の悲劇

主君と嫡男の深刻な外交路線対立において、補佐役(傅役)としての立場や情義から派閥の軸となり、結果として組織内の政治的粛清の標的となる統治機構の暗部。