謙信に認められた武勇と上杉家を支えた鉄砲戦術
剛の者としての圧倒的な体格と川中島での活躍
1546年誕生。大関親信の子。長身かつ黒子が多いという恵まれた体格を持ち、第4回川中島の戦いなど激戦の中で大声を張り上げて味方を鼓舞。その猛将ぶりを上杉謙信から「剛の者」と絶賛された。
長谷堂城の戦いや大坂の陣における鉄砲隊の運用
関ヶ原の戦いに伴う長谷堂城の戦いで最上軍の追撃を鉄砲隊で撃退して直江兼続らの撤退を援護。さらに大坂冬の陣では徳川方として参戦し、大野治長の軍勢を鉄砲隊で圧倒して徳川秀忠から感状を賜った。
「大ふへん者」としての逸話と風流な晩年
感状を「花見同然」と言い放つ豪気と直筆の誤り
秀忠から受け取った感状をその場で開封し、謙信の下では一度ももらえなかったものがこんな花見のような戦でもらえるとは笑い話だと豪快に笑い飛ばした。なお、その感状に「杉原」と宛名ミスがあったため、自ら進んで姓を杉原に改めたという伝説も残る。
茶の湯・連歌を嗜む風流人と71歳の生涯
戦場では不敵に笑いながら戦う一方で、茶の湯や連歌に通じた風流人でもあった。太平の世を迎えた中、自身の武辺者としての生き様に思いを馳せながら1616年に71歳で没した。
水原親憲から学ぶ教訓
激戦を生き抜く実戦的な戦闘技術(鉄砲戦術)と冷静な状況判断
単なる猪武者ではなく、要所において鉄砲隊による伏撃や援護を完璧にこなし、組織のピンチを何度も救い出した優れた戦術眼と実務遂行力。
権威や肩書に縛られない孤高の武士としての誇りとユーモア
天下人・徳川家からの感状を前にしても媚びず、かつての主君・謙信への忠義と自負を胸に飄々と振る舞った、戦国末期を生き抜いた最後の豪傑らしい生き様。
