浅井旧臣から秀吉の「赤母衣衆」へ
浅井氏傘下から織田へ
近江国出身で、元は浅井氏傘下の国人。1573年の小谷城の戦いで浅井長政が討たれると織田氏に従属し、明智光秀の与力として黒井城の戦い(赤井直政攻め)などで武功を立てた。
秀吉の側近(赤母衣衆)として抜擢
のちに羽柴秀吉の家臣となり、播磨の別所長治を攻めた「三木城合戦」で顕著な武功を挙げた。秀吉の精鋭エリート部隊である「赤母衣衆(あかほろしゅう)」に抜擢され知行を与えられた。
「賤ヶ岳七本槍」最年長と秀吉水軍の主力へ
1583年:賤ヶ岳の戦い
賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられ、山城国で3千石を拝領した(安治は七本槍のメンバーの中で最年長)。
豊臣水軍の将としての縦横無尽の活躍
1587年、秀吉の命により黒田孝高の与力となり、水軍の指揮官へ転身。九州征伐では九鬼嘉隆・加藤嘉明らとともに水軍を率いて島津氏を攻撃した。1590年の小田原征伐では、北条氏の水軍拠点であった下田城の攻略で大功を立てた。
文禄の役への参陣
1592年からの文禄の役では、1,500の兵を率いる水軍の将として渡海し、朝鮮半島での海戦・水上戦に従事した。
関ヶ原の決断と藤堂高虎の取り成し
西軍からの寝返りと東軍勝利への寄与
1600年の関ヶ原の戦いでは当初西軍として布陣したものの、開戦後に小早川秀秋らの動向に呼応して東軍へ寝返った。
同郷・藤堂高虎の取り成し
関ヶ原で西軍から寝返った武将の多くが戦後に処罰や冷遇を受けたのに対し、安治は近江出身の同郷で親交の深かった藤堂高虎が徳川家康へ強く取り成したことで咎めなしとされ、所領を安堵された。
幕藩体制での飛躍と龍野神社での神格化
伊予大洲藩から譜代大名への道
1609年、伊予大洲藩5万3,500石へ加増移封。1614〜1615年の大坂の陣では、嫡男の脇坂安元が徳川方として出陣し武功を挙げた。
1615年の隠居と子孫の繁栄
大坂の陣の後、安治は安元へ家督を譲って隠居。脇坂氏はその後、信州飯田藩を経て播磨龍野藩(兵庫県たつの市)の藩主となり、江戸時代を通じて名門大名として栄えた。明治維新期には10代藩主・脇坂安斐が龍野藩知事を務めている。
主祭神としての祀り
1862年、9代藩主・脇坂安宅により龍野神社(兵庫県たつの市)が建立され、藩祖である脇坂安治が主祭神として祀られた。
脇坂安治から学ぶ教訓
状況の変化に応じた専門性(水軍)の獲得
陸戦の野戦武者から秀吉の水軍指揮官へと役割を柔軟に変化させ、小田原や朝鮮半島で独自の強み(水軍力)を発揮したことが、大名としての地位を確固たるものにした。
同郷のネットワークと信頼関係の価値
関ヶ原という命運を分ける危機において、藤堂高虎という強力な味方(同郷の絆)の取り成しを得られたことが、家を潰さずに江戸時代の繁栄へと繋げる最大の決定打となった。
