幼少期の流浪と秀吉への仕官
三河一向一揆による流浪
1563年、三河国に生まれる。同年、三河一向一揆が勃発すると、徳川家康の家臣であった父・教明が一揆方に与して家康から離反。敗北した加藤家は領地を追われ流浪の身となった。
15歳での初陣と武勇
流浪の末、近江国で羽柴秀吉に仕官。秀吉の播磨攻め(三木合戦)に15歳で参戦し、2つの首級を挙げて早くもその武勇を現した。
「賤ヶ岳七本槍」と水軍主将としての躍進
1583年:賤ヶ岳の戦い
賤ヶ岳の戦いで抜群の功を挙げ、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられて一頭地を抜いた。
四国平定と淡路1万5千石
1585年の四国平定では小早川隆景の軍に加わり伊予平定で活躍。功績により淡路国で1万5千石を与えられ、領主となった。
秀吉水軍の中核へ
1587年の九州征伐では水軍指揮官として薩摩への海路侵攻を担当。1590年の小田原征伐でも水軍を率い、北条方の重要拠点・下田城の攻略に貢献した。
文禄の役での激闘
1592年からの文禄の役では、水軍大将・九鬼嘉隆に次ぐ副将として淡路水軍を率いて渡海し、李舜臣率いる朝鮮水軍と激しい海戦を繰り広げた。
武断派としての決断と松山城の創建
石田三成襲撃事件と関ヶ原の戦い
1599年、秀吉没後の政局において加藤清正・福島正則・黒田長政らとともに「武断派七将」として石田三成襲撃事件を起こした。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与して本戦で奮戦。留守を狙って本拠地・伊予が西軍に襲撃されるも、関ヶ原本戦での東軍勝利の報が早く届いたことで西軍を迅速に撤退させた。
伊予松山20万石と松山城の整備
関ヶ原の戦後処理により伊予10万石から倍増となる20万石へ加増された。勝山に新たな城の建設(のちの松山城)を開始するとともに、地名を「松山」と改称。愛媛・松山の礎を築いた偉人として現在も親しまれている。
幕府重鎮としての躍進と会津43万石への加増
徳川幕府における抜群の信頼
かつて家康に背いた父を持つ嘉明であったが、幕府成立後は一転して徳川家の重鎮として重用された。
1619年: 改易となった福島正則の身柄預かりおよび広島城の開城・接収を担当。
1622年: 徳川家光の「鎧着初(よろいきぞめ)」の儀式で介添役を務める。
1626年: 後水尾天皇の二条城行幸において警護役を任される。
会津43万5,500石へ加増移封
1627年、会津藩主・蒲生忠郷が嗣子なく死去したことに伴い、蒲生氏が減封となって伊予松山へ転封。入れ替わる形で嘉明が陸奥会津へ移封され、43万5,500石の大封を得て若松城へ入城した。
加藤嘉明から学ぶ教訓
出自を乗り越えた実務力(陸戦・水軍)
一向一揆での敗北・流浪という過酷なスタートから、陸戦での武勇だけでなく水軍の指揮官という専門性を磨き上げたことが、乱世を勝ち抜く絶対的な強みとなった。
徳川体制への徹底した貢献
豊臣恩顧の武断派でありながら、幕府成立後は徹底して徳川家に忠義を尽くし、福島正則の改易処理や将軍家の重要儀式を滞りなくこなした柔軟性が、蒲生氏衰退後の会津43万石という破格の加増と家の繁栄をもたらした。
