島津氏久―南北朝の激動を駆け抜けた島津奥州家の祖、今川了俊と戦い抜いた大隅守護 (jhistory)

誕生と三つ巴の南北朝・九州戦線

​島津奥州家の祖

1328年、鎌倉幕府の鎮西探題を攻略した名将・島津貞久の四男として誕生。島津総州家(そうしゅうけ)の祖となった兄・島津師久(もろひさ)とともに、南北朝の動乱期を生き抜いた島津奥州家(おうしゅうけ)の祖である。

​三つ巴の九州戦線と畠山直顕

南北朝時代の九州は、足利尊氏派と足利直義派に分かれた観応の擾乱に加え、征西将軍・懐良親王を抱える南朝方が勢力を誇る三つ巴の激戦地であった。島津氏は当初尊氏派に属し、1351年の金隈の戦いなどで足利直冬ら直義派と交戦。最大の敵となった日向守護・畠山直顕に対抗するため一時的に南朝方へ転じるなど、変幻自在の戦略で1358年までに直顕を豊後国へ追放し、日向・大隅の基盤を固めたのちに幕府方へと復帰した。

​守護職継承と水島の変

​大隅守護の継承

1363年に父・貞久が死去すると、薩摩守護は兄・師久が、大隅守護は氏久がそれぞれ継承した。

​水島の惨劇と今川了俊との対立

新たに九州探題として赴任してきた今川了俊(貞世)の南朝討伐に協力していたが、1375年の水島の陣において、了俊は氏久の説得に応じて参陣していた少弐冬資(しょうに ふゆすけ)を突如謀殺。メンツをつぶされ激怒した氏久は幕府方を離脱し、再び反今川(南朝方・独自勢力)として挙兵した。了俊は息子の今川満範を派遣して追撃を試み、ここから20年近くに及ぶ島津氏と九州探題の凄絶な抗争が勃発した。

​後世への継承と最期

​息子の代へ引き継がれた執念

20年におよぶ今川氏との死闘の最中である1387年に没した(享年60)。今川了俊との戦いは、氏久の子・島津元久(もとひさ)や総州家の島津伊久(これひさ)らに引き継がれることとなった。

​馬術の達人としての顔

武勇だけでなく馬術の達人としても知られ、馬術書『在轡集(ざいけいしゅう)』を著したと伝えられている。

中世における武家の馬術・軍事技術や、島津氏の領国経営・武芸の素養を知るための貴重な古文書とされる

​島津氏久から学ぶ教訓

​メンツと信用を守る武家としての誇り

今川了俊による味方(少弐冬資)の謀殺という不義理に対し、自らの仲介者としての信用と面目を潰されたことを決して許さず、20年もの徹底抗戦を選んだ武士としての高潔な気概。

​中央の混乱に翻弄されない柔軟性と生存戦略

尊氏派・直義派・南朝・幕府と敵味方が目まぐるしく変わる南北朝の極限状態において、自一族の領国支配(薩摩・大隅・日向)を守り抜くために最適な立場を即座に選択し続けた現実的な危機管理能力。